T15-10(T15-10)・広島から帰るのを阻止されたトラブル。:JRトラブル=津山駅で徹夜

 

 

 

 

 

 

(1)広島からの本来の帰路予定(2015年8月7日)

 

①15:32宮島口発~16:01広島着:列車番号3944M:呉行き
②16:15広島発~17:27三原着:列車番号366M糸崎行き
八本松付近で雷で40分遅れ、しかし、三原には時間通りとアナウンス有り

③17:30三原発~19:16岡山着(場内アナウンスは19:18着・福山駅でも同一車内アナウンスあり):列車番号444M:岡山駅4番ホーム着
(福山18時9分着:19時5分発)

④19:38岡山発(9番ホーム)~20:49津山着
列車番号3944D列車種別 快速 ことぶき

⑤21:00津山発江見行き
列車番号1870D列車種別快速

★①から⑤で家に帰れるはずであった。
ところが、③が不可解な形で遅れ、しかも同じ岡山管区なのに、⑤の接続列車をまたせていなかった。{勿論、④ならば5分遅らせれれば十分なのに}。岡山駅で事情を伝えて、依頼していたのに。その結果⑥で帰り、津山駅構内で徹夜で始発を待つ羽目となる。帰ってからもリズムが崩れガタガタとなる。

⑥20:01岡山発(9番ホーム)~21:30津山着
列車番号964D{瀬戸内線遅れの関係で4分遅れで出発}

 

(2)不可思議なこと。
③の電車で途中夕日を見る。夕日は空気が汚いときに出る。雷雨などの後では空気の汚れがなくなり夕日は通常はでない。だが、中庄~庭瀬間で雷雨のため、遅れるとのアナウンスが、中庄付近であった。勿論、雨は一切ふっていない。雷も見えず。
岡山駅直前で③の汽車の19:36岡山駅着と車内アナウンスあり。そこで、9番線の場合にはギリギリのため、座席からたちあがり、着くと同時に走って間に合おわす体勢をとる。出口につくや、汽車が止まる。19時38分丁度かほんの少し前と思われるが、岡山駅場内アナウンスで津山行き発車のアナウンスなし。走って、9番線に着いたのが39分頃と思われる。よって階段付近が38分ころか38分30秒頃。
9番線に電車がないのでうろうろした後で1分余り駅の9番線でうろうろした後で駅の時計を見ると40分と41分の間。10番線にいた駅員に聞くと。津山線の列車はみていないとのこと。この駅員に事情を話す。駅員は駅の窓口で言ってほしいというが、駅の窓口までいくと20時01分の汽車・⑥にも乗れない。万一、津山駅で姫新線が30分程度遅れてまってくれているときに間に合わなくなり困る。ともかく、十番線の駅員に津山駅に事情を伝えてほしいと伝言する。

津山駅では、最終列車の接続のための、時間延期はなかった。津山駅の駅員に事情を話す。最悪の場合には駅構内で徹夜で待たせて欲しい趣旨を伝える。駅員「熱中症に注意を」とのこと。弱り果て、駅員に電話番号案内の便宜をはかってもらい、姉の電話番号をNTTサービスで調べてもらう。その後、姉に電話し「本日は津山駅で徹夜の趣旨を伝えると、、「駅は夜電気を消すのでは……」と言う。そこで、駅員さんに、「夜、電気を消すかと尋ねると」、「いや、本日は待合室を開放し、電気もエアコンもつける」と申し出有り(駅員さんからの申し出であり、私が要求したのではない)。

不可思議なこと。
※姉への電話は、親戚や近所で不幸があれば、津山駅からタクシーで帰る(推定費用1万円余り)。不幸がない場合には津山駅で徹夜で始発を待つためであった。

※津山駅の駅員さんの名前は聞いてメモしている。私の名前などは名刺2枚渡している(顔写真付き)。よって、待合質で徹夜していても、私を不審者とは思わずに、駅員さんは安心して寝られるはずである。ちなみに、津山駅は22時30分から午前5時までは営業中止となっている(汽車の一部は0時前後まで来るが)。
3)今後の対応と不自然なこと。
(A)私の今後の対応。本当に上記汽車が遅れたのかどうかの事実確認をする。文書で、JR西日本の責任者宛に行う。まず、事実関係の確認である。
次に、駅の記録では列車遅れ原因は何となっているかを聞く。
(B)万一、雷雨といった場合には気象庁で庭瀬付近で本当に雷雨があったかどうかの確認を行う。
その後で対応は考える。上記二点が終了するまでは、対応は白紙である。
再度言う。(A)と(B)が終了するまでは対応は完全白紙である。ただ、参考記述とすれば、何故か8月6日の広島行きのときに被害が多い。

 

 

(4)資料判定と疑問。
【資料】JR列車運行状況の履歴より(2015年8月9日18時36分確認)

【山陽本線】 踏切の確認 列車の遅れ
<第一報 18時36分>2015年08月07日 20時47分更新

山陽本線:中庄駅~庭瀬駅間で踏切の確認をしたため、山陽本線(岡山⇒相生・姫路方面)の一部列車に約15分の遅れがでています。

★上記の資料では、私の電車は19:18分着のため、15分遅れても19時33分着となり、帰れたはずとなる。次に、履歴の最終更新が20時47分にも拘わらず、私の乗った③の遅れ情報記載はない。

 

 

(5)資料―2。岡山から津山へ行く途中でTwitterでトラブル予防策をはる。

津山線道中でTwitter記載文書を以下記す。
SOS. JRの不可思議な行動で本日寝る場所なし.津山駅で再度事情言い責任をとってもらう 最悪の場合は津山駅構内で徹夜で始発をまつ、

今、津山線道中。先ほど福渡とアナウンスあり。岡山駅着19時18分着の汽車に乗る。汽車後れ`岡山駅直前で36分着という。着いて大慌てで津山線乗り場ホーム9へ向かう。38分発の汽車に乗るため。調度38分につくも汽車なし。階段付近からも見えず。10番線の駅員に事情話す

山から姫新線の最終に乗り換えるには岡山駅発19時38分津山行きが最終。駅員に事情伝えたため、姫新線が遅らせまっているとは思うが、そうでなければ津山駅で徹夜シカ無し。予定外にホテル泊まる金あれば新幹線利用している

昨年も8月6日に広島平和記念館に向かった時もjr野不可思議行動で三原でストップとなる。本年は先手をうちホームページで公開し昨日いけたが帰りがこうである。私の平和記念公園行きを嫌悪しているものがいるp

15-136-1.津山駅待合室で徹夜して、十分ほど前に我が家着。
広島平和記念公園に8月6日に行くと危害は二年連続。
関連あるかどうか不明も、1985年8月6日平和記念公園にいったと思うが、のときも五千円の原爆資料パネルを即座に●●学校で紛失をしている。不可思議な形で。

15-136-2。
物事の発端は誰かの勘違いかと、友人に2012年4月に言うと、事情を知っているような友人が「いや、人間違いが発端だ」とのこと。誰との人間違いか、犯人は誰か、全て私には不明。
またどうしてJRが荷担するかも不明。それも広島平和公園・8月6日に特に。
詳細後で。

15-136-3。帰宅時間は午前5時50分頃。Twitter時間は世界のどこを基準か不明のため追記

 

(6)不明な点   JR運行
①当日の運行履歴には私の乗った汽車の遅れの記載がないこと。  他の汽車については、8月7日の遅れ状況が何本も記述があったしかし、私の乗った汽車の遅れは記述がない。(社会通念上は、この日の遅れ状況全部が記録されているはず。タイトルも運行状況履歴となっているため。)無理して解釈しても18時頃の遅れ記述の延長で15分遅れとなる。15分遅れならば33分か31分着となり、38分発の④に間に合っている。

 

②姫新線最終便への接続対応がなかったこと。
③略。
【2015年8月10日重要な追記】
①運行履歴、過去の運行状況の(8月7日の全てとしか解釈できない)記録に、私の乗った汽車の遅れが記載されていなかったこと。無理して解釈しても18時頃の遅れ記述の延長で15分遅れとなる。15分遅れならば33分か31分着となり、38分発の④に間に合っている。★8月7日の遅れ状況が岡山管区で幾つも運行履歴に記述があった。だが、私の汽車の記録はない。運行履歴は念のため印刷とコピーをとっている

 

②Twitterに人間違い危害と記述した。
「人まちがい」→私自身も意味が十分分からない。
念のため、次のことを強調しておく。
は党派中立・宗派中立。30年以上どの組織にも所属していない。
非暴力を主義としている。(だが、暴力を振るっている学生・俗に言う新左翼の人にも暴力は振るっていない。よって、彼らからも恨まれる覚えはない。)
私の祖父は教師、父も教師であり、JR関係の人間は私の家には一人もいない。(親戚にはいるが。)なお、我が家と類似番地は多い。{我が家の番地使用禁止にも拘(かか)わらず、同一番地使用の家もあり。}
姉弟は姉しかいない。男の兄姉は一人もいない。
人から恨みはかう覚えはない。
よって、人からつきまとわれ、危害を受けるのは勘違いとしかおもえない。島根県の友人が「なぜ、そういうことを長期されると思う」と聞いたので(2012年4月)、私は「誰かの勘違いとしか思えない」と返答すると、彼が「いや、人まちがい」と言った。何の意味か不明。
なお、津山駅で徹夜中「阪急・阪神・近鉄・広島電鉄・松本の交通機関・山陽電鉄・富山の交通機関、大阪の地下鉄……では一切ないのに、どうしてJRだけ、よく挑発されるのだろうか。ただし、8月6日に絡まぬときは、単なる遊び程度のからかいであり、最終目的は達成できる範囲でしてくる。だが、8月6日広島行きが絡むとなりふり構わず、JRが毎回無茶(むちゃ)をするのは何故(なぜ)だろうか」と何度か言っている。

 

蛇足。警察官には親友もおり、個人的に警察自体に恨みはない。
津山駅の近くに津山駅派出所があったが、1976年から77年初頭にかけて、友人がいた関係で何度も会話をしによっているくらいである(警察官の営業妨害はしていないが。)