「写真物語館・水俣と水俣病」・1983年水俣訪問編

「写真物語館・水俣と水俣病」・1983年水俣訪問編

 

「写真物語館・水俣と水俣病」作成→本格着手開始

本日(2017/09/23)→1983年訪問時の写真を掲載。本格写真は1995年以降

http://takachan1.xsrv.jp/yasuragi/program5.html


SNSへの掲載見本写真は水俣の公害源埋め立て地→1983年、1996年、2016年である。

当時、カメラには全く興味がなかったので、コンパクトカメラか父のやや故障気味のカメラで写す。ほぼすべて手ぶれ。
フィルムをデジタル化し、レタッチで手ぶれを誤魔化している。写真価値のあるものは1995年頃から徐々にであり、1983年頃はカメラのことなどはさっぱり分からなかった。

写真的価値は1995年以降の写真。
ただし、このHPは写真館ではなく、写真物語館である。そこで、写真作品としての価値よりも、テーマを重要視している。

よくカメラマンに間違えられるが、私は教材や本に挿入する写真を撮っている。趣味で撮影したり、カメラを使ったりしているのではない。そこで、上記の如く、手ぶれだらけの写真でも、必要があれば掲載する。

人に興味を抱かせるためには、写真も見事な方が良いだろうということで、私のカメラ技術が進化したのである。チャップリンが映画「ライムライト」ではバイオリンを本格的に自分で弾くのと同様である。



(参考)1983年水俣訪問の際の手記

八月五日、水俣へ旅立つ。

順路を簡単に記す。①熊本駅発(一三時)~②八代(やつしろ)市郡築(ぐんちく)神社にて郡築小作争議の地を訪れる(一四時三〇分)~③徳富蘇峯(そほう)ゆかりの地を訪ねる(一六時)。そして、④水俣の国民宿舎水天荘にたどり着く(一七時過ぎ)。
最初に書いたように、このとき、初めて見た水俣の海の青さと美しさに驚く。この夜、極めて人見知りする性格にも拘(かか)わらず、部屋を同じくした幾人かの教師とコップ酒(ざけ)を交(か)わしながら夜を徹して話をしたことが強く印象に残る。見知らぬ人とこうした形で話をしたのは何年ぶりのことであろうか。しかも同じ目的を持つ人と。

特に印象に残っているのが徳島の三十年以上のベテラン教師Bさんである。ハイカラな感じの反面〝教員気質(かたぎ)〟いや〝職人気質〟という古き趣(おもむき)のある方であった。興味深く話を聞かせていただいた。話の内容よりも、話と雰囲気に〝教師〟を感じ、安らぎを覚えた。この人とは授業についての話は全くしなかった。教員をされていて、生徒や生徒の家庭のことでいろいろと奮闘された話や、その都度(つど)頭を悩ませた話を聞きながら、古い教師の持つ独特の安らぎをその人の中に感じた。

私は教師ではなく〝授業屋〟であるが、それでもこうした教師の話の中に安らぎを覚えることも事実である。また、私より少し年輩の大阪の高校教師Cさんとは翌日も終始行動を共にし、それも懐(なつ)かしい思い出となっている。そして彼らと、先のベテラン教師の方の出会った生徒やその家庭の話を聞きながら、明け方まで飲んだコップ酒の味もよく覚えている。尚、彼らと話をする前に聞いた、水俣病患者の方の話や、映画「医学としての水俣病」の中での、狂ったような猫の様子も強く印象に残る。

翌六日は宿舎を八時に発(た)つ。この日の順路は⑤(水俣病の治療・研究に積極的に取り組んでいる)水俣協立病院で、水俣病についての説明と病院の屋上からチッソを始め水俣市内を展望する、⑥百聞(ひゃっけん)排水口(チッソが水銀を流していた所)、⑦ヘドロ処理場、⑧亀ノ口プール(チッソが有害物質を捨てたと思われる地)、⑨明水(めいすい)園(水俣病患者の方のための複合施設)にて患者及び職員の方との交流、そして太郎茶屋にて食事をし、⑩高田焼かま元を経て熊本駅に戻る。先に記した知り合いになったメンバーと、いまだに印象に残る最後の握手を交わした後で、その日の内に岡山へ帰る。

浜田隆政著『旅に心を求めて・下巻』(Kindle・Kobo版・各百円:$1)より抜粋