追悼―谷口稜曄様(長崎原爆犠牲者)

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追悼―谷口稜曄様(長崎原爆犠牲者)



谷口稜曄(たにぐち すみてる、1929年1月26日 – 2017年8月30日)さんが、8月30日逝去された。
谷口さんは、1945年年8月9日(16歳)のときに、爆心地から1.8キロの路上で郵便配達中、爆風に吹き飛ばされた。
熱線で背中は大やけどし、入院生活のうち2年近くはうつぶせのまま、床擦れで胸の肉は腐り、「殺してくれ」と、激痛のため何度も叫んだ。…

超多忙のため、谷口さんへの追悼文掲載が遅れました。

谷口さんの御冥福を心よりお祈り申し上げます。


(1)谷口さんの経歴
経歴
https://mainichi.jp/articles/20170830/k00/00e/040/291000c



【タイトル】赤い背中=被爆者・谷口さんの核廃絶願う戦後のたたかい(約55分)

【リンク】https://www.youtube.com/watch?v=0Fst1LuLlIw

【YouTube記載事項】2016/11/03 に公開
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被爆者のたたかい

(2)谷口さんの平和への誓い(約7分)

【タイトル】長崎平和祈念式典 平和への誓い 谷口稜曄 2015年8月9日
【リンク】https://www.youtube.com/watch?v=b4jayb3D4Nk



【YouTube記載事項】2015/08/08 に公開
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長崎平和祈念式典
平和への誓い
被爆者代表 谷口稜曄(すみてる)
平成27年(2015年)8月9日

【平和への誓い】 全文
70年前のこの日、
この上空に投下されたアメリカの原爆によって、
一瞬にして7万余の人々が殺されました。
真っ黒く焼け焦げた死体。
倒壊した建物の下から助けを求める声。
肉はちぎれ、ぶらさがり、腸が露出している人。
かぼちゃのように膨れあがった顔。
眼(め)が飛び出している人。
水を求め浦上川で命絶えた人々の群れ。
この浦上の地は、一晩中火の海でした。地獄でした。
地獄はその後も続きました。
火傷(やけど)や怪我(けが)もなかった人々が、
肉親を捜して爆心地をさまよった人々が、
救援・救護に駆け付けた人々が、
突然体中に紫斑(しはん)が出、血を吐きながら、
死んでいきました。
70年前のこの日、私は16才。郵便配達をしていました。
爆心地から1・8キロの住吉町を自転車で走っていた時でした。
突然、背後から虹のような光が目に映り、
強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩(たた)きつけられました。
しばらくして起き上がってみると、
私の左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、
皮膚が垂れ下がっていました。
背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。
不思議なことに、傷からは一滴の血も出ず、
痛みも全く感じませんでした。
それから2晩山の中で過ごし、
3日目の朝やっと救助されました。
3年7か月の病院生活、
その内の1年9か月は背中一面大火傷のため、
うつ伏せのままで死の淵(ふち)をさまよいました。
そのため私の胸は床擦れで骨まで腐りました。
今でも胸は深くえぐり取ったようになり、
肋骨(ろっこつ)の間から心臓の動いているのが見えます。
肺活量は人の半分近くだと言われています。
かろうじて生き残った者も、暮らしと健康を破壊され、
病気との闘い、国の援護のないまま、12年間放置されました。
アメリカのビキニ水爆実験の被害によって高まった原水爆禁止運動によって励まされた私たち被爆者は、
1956年に被爆者の組織を立ち上げることができたのです。
あの日、死体の山に入らなかった私は、
被爆者の運動の中で生きてくることができました。
戦後日本は再び戦争はしない、
武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。
しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、
憲法改正を押し進め、
戦時中の時代に逆戻りしようとしています。
今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、
被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、
思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。
核兵器は残虐で人道に反する兵器です。
廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。
私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、
戦争のない、
核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、
戦争と原爆被害の生き証人の一人として、
その実相を世界中に語り続けることを、
平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。
平成27年8月9日
被爆者代表 谷口稜曄(たにぐち すみてる)



 

(参考)関連して、山口仙二さん関連の記事を掲載。下記は写真物語・長崎館へ移動予定。


山口仙二(やまぐち せんじ、1930年10月3日 – 2013年7月6日)


(1)被爆体験

私が被爆したのは14歳、三菱兵器工場への学徒動員中だった。班長の命令で4、5人一組になって防空壕を掘っていると、ピカッ!と閃光がして、そのまま気絶して倒れて しまった。気がつくと鍬(くわ)を持ったまま壕の中に倒れていた。
周囲は一変し、生き地獄だった。何十人かの死体を踏みこえ、浦上川を渡って山の方へ逃げた。素足にパンツ一枚だったが、見ると私も他人と同様に両手や胸、腹などが黒く焦げてふくれあがっていた。
その後、大村の海軍病院に運ばれたが、当初は意識不明の 状態だった。治療を受けるとき、肉がめりこんだガーゼをはぎとるので、そのたびに「殺せ、殺してくれ!」と叫んだ。
ある日、体中にチカチカと激しい痛みを覚え、包帯を解いてもらうと、まるまる肥った蛆(うじ)虫がボロボロッと落ち、つまみ出された何百匹もの蛆虫は、ジグザグデモをやって いるようにもつれ合っていた。
翌日、焼けただれた右の耳にも大小30匹ほどの蛆虫が繁殖していた。蛆虫は、ほとんどの負傷者を苦しめたが、それはまさに“蛆地獄”だった。


この文章は以下のリンクから抜粋した。
http://www.bonheur.ne.jp/k1/yama.html


(2)第2回国際連合軍縮特別総会の全体委員会で、NGOを代表して演説した。(1982年)


尊敬する議長、事務総長、並びに各国代表の皆さん、NGOの兄弟姉妹のみなさん、全人類の生存か絶滅かに深く関わるこの歴史的な第2回国連軍縮特別総会全体委員会で、私は、日本の婦人や青年の団体、宗教団体、平和団体、労働者や被爆者などの日本の草の根運動、核兵器禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会を代表して発言する機会を与えられたことに対し、感謝と敬意を表明致します。
私たちは核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名2,886万2,935名分を携えて参りました。(中略)

私の顔や手をよく見て下さい。
よく見て下さい。
世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ一人たりとも許してはならないのであります。

核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約して下さるよう心からお願いを致します。

私ども被爆者は訴えます。
命のある限り私は訴え続けます。
ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ。
ありがとうございました[6]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%BB%99%E4%BA%8C


(3)同上委員会での演説の赤字部分

【タイトル】ヒバクシャ山口仙二さんをたずねて2011.wmv
【リンク】https://www.youtube.com/watch?v=y6vnQO_zlqI&t=119s

【YouTubeコメント】2011/07/29 に公開
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菅政和、牧山敬子、川尻瑠美の3氏は6月4日、長崎民医連現地企画として被爆者の山口仙二さんを訪ねました。