重要情報公開№004・(その3)→違法車の主にからまれ、警察に届け出せざるを得なくさせられた事件、黒幕か背景の疑惑:(5)『閉じた窓にも日は昇る』より。

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重要情報公開№004・(その3)→違法車の主にからまれ、警察に届け出せざるを得なくさせられた事件、黒幕か背景の疑惑:(5)『閉じた窓にも日は昇る』より。

(『閉じた窓にも日は昇る』二〇〇八年版では、第二六章記述後、省略していた箇所)。

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☆☆☆『同上書』から抜粋開始☆☆☆

 


二〇〇七年五月から即①(道交法違反の車による威嚇)と②(交通問題の後始末の押しつけ)の再実験と見せかけて、悪質な自動車威嚇や見逃せない違法駐車に遭遇し続ける羽目となった。

後者に関しては、HR医院界隈の歩道を完璧に遮断し、交通量の多い車道通行を歩行者に強いていた車に遭遇する(〇七年一〇月二七日)。注意しても無視され、車のナンバーをメモしようにもナンバープレートを全く見えない状態にしており、撮影を余儀なくされる。

撮影中には文句というよりも恫喝(どうかつ)もかけられる。また、「撮った写真をどうする」と相手から言われた以上、「警察へ届ける」と明確に返答させられた。

その結果、警察署などへの文書送付を余儀なくされた。


届けねばどうなるか。

万一、先の危険行為をしていた人間が先に警察署へ行き、私に因縁をつけられたと嘘をならびたてれば、私の方が逆に不審者・犯罪者とされる。

考えすぎと思う人は、第二編一一章を再度読んで貰いたい。不法侵入・拉致未遂事件被害の追及を、予備校生徒の受験に責任を負うため、途中で断念するや否や、これ幸いに被害者の私の方が巧妙な方法で意図的に不審者にされ、アパートを追い出され、我が家に監禁された。

しかも二〇年も。まるで、軍国主義下の一部の軍人の卑劣な手口の如くに。


X1説ならばストーカーX1、通常説ならば二〇〇〇年以降は賠償問題実験に絡めた「機構」類の犯罪の疑惑が高い。映画説ならば啓発活動の暴力強要である。しかも、話題提供を兼ねて面白おかしく。

勿論、私への被害状況は隠し、抗議の部分や怒っている部分のみを放映しているであろう。何故ならば、八七年の不法侵入・拉致などは犯罪その物のため放映できる訳がない。放映し止めていなければ政府の犯罪となるから。

なお、届け出る場合には、相手に反論の余地がないように丁寧に届け出なければならない。そうしておかないと、相手が後で何人かのサクラを遣い、嘘を言われると私の方が不審者・犯罪者予備軍とされるのであるから。一一章の如くに。そして丁寧に記すならば、ついでに交通問題を撲滅するような啓発文書を記しておいた方が良いとなる。どうせ、大量に時間を取られることは決定されたのだから。動いた以上、そこまでしない限り、モグラ叩きとなり、今回の車対策が終了しても、別の車が同様なことをし続け問題解決に近づきさえしない。政治経済に長年携わってきた人間としての常識である。

斯(か)くして、写真の現像・プリント作業や警察への報告文書以外に、犯罪者を含む誰もが納得し、二度とすまいと心底思うような文書を作成せざるを得なくなる。九七年の歩道走行単車のときにも、それがどのくらい危険で、どのように社会に害を与えているかを記した手紙を違法者自体にも、警察経由で送付するよう依頼した。違法者に二度とすまいと自覚させ、同時に警察にも懸命にこうした犯罪をなくすよう動かざるを得ないと決意させなければならない。九七年のときは数週間かかった。今回は、警察宛と市議会議員宛にそうした視点からも報告文書を作成したため、約一箇月かかった。だがまだ市役所等に本格対応させる文書作成が残っている。

病気療養中かつ無収入の今、動きたい訳がない。こうした後始末が嫌で、今、外出が億劫(おつくう)どころか、通院を除き外出する訳がない。といよりもできる訳がない。毎回こんなことをしていたら永久に無職で餓死をする。おまけに運動以上に疲れ、ストレスも悪質なのがたまる。ならば、最初から無視し、放っておけばよいではないか。本当にその通りである。私自身が一番痛感している。では、このときに何故注意をしたのであろうか。私にもよく分からない。ア・危険すぎ、見るに見かねて無意識で注意をしたのか、イ・余りの①交通違反による威嚇連続で神経が過敏になっていたからか、ウ・奇想天外と思われようとも催眠からであろうか、エ・それらの混合からか。ア~エについて、以下、少し解説をする。

ア・市民義務からか
この歩道は児童・生徒・学生の通学路であり、病院もすぐ側(そば)にある。HR病院は、約一月(ひとつき)前にこの病院を退院した私の母(〇八年五月で八九歳)も変形腰椎(ようつい)症・骨粗鬆(こつそしよう)症で通院している、足・腰等の骨折治療やリハビリ関連の病院である。

おまけに一寸(ちよつと)した弾みで転び骨折した伯母(九五歳)がこの病院に入院中のときでもあった。

そして、母が治療後に町営バスを待つ間に買い物を含めてよく通る歩道である。違法駐車を避けて車道に出る際に、万一転べば寝たきり老人になる。もし寝たきりになれば私と母と姉の喧嘩となる。

私「何故もっと注意して歩かないのか。違法車のバックナンバーは控えたか。治療費、いや、今回直らずに寝たきりの可能性があるが、どうしたらよいのか。」

母「バックナンバーがないのだから控えられないだろうが。転んで動けないのだから車の前側までいけないだろう。しかも歩道を完全に防いでいるのだから。」

姉「もう言っても仕方ないでしょう。金は私が何とかする。警察に届けても相手はしらばくれるし、無駄でしょう。警察が轢き逃げでもないのに動くと思ってるの。第一、相手が分からないでしょう。証拠写真でもない限り。ただ、二四時間三六五日も母の介護はできないので後はお前がやれ。」

我が家で、こうして家族で大喧嘩をしている頃、肝腎の(本来賠償責任のある)違法車の主は、家で言っているであろう。
「仕事の後の酒はうまい」、と。

〇六年には、老人の転倒事故は道路が33%で、屋内の31%を上回っていた。こうした違法行為が頻繁なため、障害者・老人等は恐れて最初から外で道を歩くのを断念した上での数値である。依(よ)って見逃すには危険すぎた。こうしたことが脳裏をよぎり、正義感から注意をしたのであろうか。


イ・過度の①交通違反威嚇の被害による自己防衛反応からか。


この事件の四日前にも、私の目前で対向車も来ていないのに、歩道へ故意に突っ込みジグザグ運転をした、ナンバープレートも付けていないトラックに遭遇していた。なお、これらは偶然だけとは思えない。

何故ならば、駿台を辞職した途端に、こうした違法行為に出遭う頻度が偶然の確率を超えて増大した。また意識後退期(九〇~九三年)には、こうした違法行為に遭遇するのが通常の度合いに戻ったのは何故か。

九四年に意識・知力が戻るや再度頻度は増え、特に二〇〇〇年に政府宛へ救済文書を送付するや、実験と思わせた形で違法行為に遭遇する度合いが一気に増えたのは何故か。〇七年四月末、この原稿の草稿を他人に見せるや否や再度悪化したのは何故か。


こうして、二〇〇〇年頃から質も一気に悪化し、時には歩道一杯に車が私の方へ五百メートルも進んできたこともある。

美作市で、歩道完全ブロックの違法駐車は多いときは外出の度(たび)どころか、一回の外出で四台以上に遭遇したこともある。少ないときでも外出数度に一度は出くわす。ごく一部のみ撮影・メモした物のみでもかなりある。口頭の注意もある。

しかも、大半の場合、合法的における場所がすぐ近くにあるにも拘わらず。一度は、注意すると歩道から、すぐ近くの三メートル程度しか離れていない、訪問先の家の庭に簡単に動かした。だが、我が家界隈のときには、「今回だけは我が家の庭を使用して良いので、そこに動かして」と申し出ても、歩道から動かさなかった。たった五メートルなのに。

なお、先の〇七年一〇月のケースも写真撮影し、「警察に届ける」と言うと漸く最後には動かした。簡単における安全な場所がすぐ側(そば)にあったのだから。私を挑発するため、危険行為を故意にしていたとしか思えない。いずれも歩道〝完全〟ブロックである。因(ちな)みに、美作市以外では、生まれてから今日までの五五年間では――車道違法駐車はよく見るが――歩行者誘導人抜きでの歩道全面ブロック型駐車は見た記憶がない。


ウ・本当に催眠なのだろうか。


私のリアクションの本質が、イの結果の精神疲弊させられたことではなく、映画説の如くに挑発→催眠型で注意を無理矢理させられているとしか思えないときも多い。だが、もし催眠であっても、泥棒行為を目撃して「泥棒を止(や)めろ」と大声で叫び、時には盗人に注意しても、催眠が解けた後で泥棒に詫びることはできないし、する必要もない。

しかし、何故泥棒してはいけないのか分からない人がいる。ひどいときには、既述の如く、私が逆に不審者にされた場合すらある。

四〇年前は、忘年会などでビールや酒数本飲み、車で帰るのは常識とされていた。

もし注意などしたならば、変人・不審者扱いとなった。

こうして、私の中学二年時に、某教員が忘年会後に飲酒運転で人を轢き死亡させた(一九六六年頃。当時の処置は懲役なし、県外への人事異動のみで教職は継続)。

だから、催眠で泥酔逆行運転している人に注意させられても、催眠が解けても「私が悪かった、飲酒運転は常識ですよね」とは言えない。

かく言う、私とて大昔、一度だけ飲酒運転をしたことがあるし、スピード違反は何度もしたことがある。だが、他人に注意した以上、絶対に道交法は遵守する義務があると感じるようになった。しかし、こうした無茶苦茶な道交法違反問題に遭遇しなくても、四章で記した三重塔に落書した私が、環境擁護派に変わったように、道交法問題でも同様の道を既に辿(たど)りつつあった。

ところで、映画説の催眠ならば、逆をやられたらという不安は当然でてくる。私が罪もない人に害を与えるようにし向けられ、引き続きその危険があれば、それを阻止できぬ場合には原則として死を選ぶしか道はない。罪もない人に対しては、私の命に懸(か)けても害を与えないが、私の一貫した信念である。

実際、第一八章に記した九七年一月の事故はCIAの如く多数の謀略があったが、この疑惑もあった。もしこの事故時に罪もない歩行者がいたら……が脳裏から離れない。

だから、その後現在まで十年の間、車に乗る必要があっても一切乗っていない。

九七年一月の不可思議な事故の件は記せば膨大になるため、事故後に出講した岡短で、元家裁調査官・K先生が私に横から笑いながらも、キッパリと断言された内容だけを紹介しておく。
「水俣に現地視察に行かれたでしょう。そのときに天草で財布をなくされたと言われていましたね。誰が発見しましたか。警察官自身でしょ。同じことです。その内に訂正が来ますがな……」


エ・道交法違反挑発の後始末をさせられた結果。

何故注意をしたかは、ア~ウのどれか、あるいはその混合かは、私にも特定はできない。事実は次の二つ(αとβ)だけである。


(α)映画説ならば、私の果たした役割は多大であったと思われる。

朝日新聞〇八年一月三日に次の記事が掲載されていた。「昨年1年間の交通事故死者は5743人で、前年より609人減ったことが警察庁のまとめで分かった。

7年連続の減少で、死者が6千人を下回ったのは53年以来54年ぶり。…… 死者数は過去最悪だった70年(1万6765人)の34%の水準」であった、と。私が本格的に交通問題に取り組み、各種キャンペーンを開始したのが九七年からである。タイムラグを考慮すると符合する。勿論、交通事故死者が減り嬉しい心情もある。


(β)だが、その後始末を私に暴力〈後始末するまで歩道で自転車に一日に十度狙われ一時間で数度ぶつけられたり、それも何日も……等々〉で押しつけてはならない。

病気もあり可能ならば見て見ぬ振りをしたいと思うし、運良くそれが可能なときもある

もちろん、病気もなく、社会常識上の金もあるとき、これを見逃す人は道義上犯罪に加担していることは事実である。

〝草の根から人に優しい社会を〟にも同感である。

だが、それは私にまともな金があるときに、正面から交通問題の協力を依頼されればの話である。今、私に無料で全部を押しつけられると私は餓死する。

それを避けるため、①(道交法違反の車による威嚇)と②(交通問題の後始末の押しつけ)は外出阻止の大きな要因となった。

同時に①、②に拘わらず、書けば類似なことを再々度されると、事実上の口封じという脅しとなっているし、なっていた。

もし、こうした問題のみならず、駿台辞職以降の違法行為・不法行為やそれに起因する病気がなかったならば、どのくらいの作品を世に問えたかは既に記した通りである。

ただ、もう交通問題に足を突っ込んでしまったため、この原稿の流れが中断しても、次のことを読者に訴えたい。

車の後始末問題を除いても、車の異常接近・歩道走行単車(一度ぶつけられ)・歩道での自転車の無法運転(多いときは一時間で数度ぶつけられ)では、気分的に外出阻止効果は十二分にある。

これほど露骨ではなくても、障害者・老人は類似感覚を持たされている。

だから、都会や街では歩道が幾ら大きかろうとも、障害者や押し車等を必要とする老人は歩いていない。
梅田に拘(かか)わらず、大阪の大歩道を見るがよい。

押し車・車椅子どころか杖が必要な老人も、盲目の人などの障害者も全く見かけない。
道路を歩行者が通れば危ないので歩道をつくったが、行政担当者は、ややこしいので自転車も、道交法に拘わらず歩道に放り込む。
すると歩行者が歩けない。そこで歩道をさらに大きくする。

歩道が大きくなれば、自転車は歩道でスピードをだせるのみか、ついでに単車も歩道走行をし、車も駐車場代わりに利用し、その結果老人・障害者は逆に歩く場所がなくなった。

こうして街では障害者・老人を家に閉じこめた。

人口が少なく、歩道が十分にない田舎の方が、押し車の老人や障害者を逆に見かけるという皮肉が生まれた。
老人や障害者は街では買い物も不可能となっている。大した行政である。国会議員・地方議員・官僚……は、教育の専門家の如く、学力低下を含む教育を憂(うれ)う談話はだすが、こうした違法車に遭遇しても見て見ぬふり。役所の職員、教員も記す必要もない。
勤務中ですら。何をか況(いわ)んや。

老人・障害者が、外を安心して、自由に歩ける当たり前の社会を。それ抜きでは、誰にとっても自由も民主主義も存在していないことの証(あか)しでしかない。

私は九〇歳、百歳になっても、生きている限り、外を歩きたい。歩けねば、車椅子ででも、外へ出たい。自然の移り変わりを見、外の空気を吸いたい。

しかし、今の歩道状況では、外出は気分的に逆効果どころか不可能である。自宅監禁、事実上二〇年閉じこめられた私には分かる。道路行政は狂っている。目覚めよ。

〇八年からは、現行の状況下で、自転車が公に歩道通行可能となるため、敢えて、交通問題の個所を長く記した。



(二〇一〇年追記)

私は、拙著『生命への畏敬』にて、九五~九七年頃交通問題特集を作品化する計画を立てていた。ところが、九七年一月に、映画説、X1説ならば、絶対に私が事故を起こさぬ場所で、謀略で事故を起こさせられた。否、映画説ならば、催眠で行動させられ、かつ車も自動制御されていた疑惑すらある。

そこで、頭に来て交通問題への取り組みを中止した経緯がある。すると、歩行者専用道路歩行中に単車や自転車で連続狙われ、取り組まざるを得ない状態に暴力によりさせられた。

主なものでも九七年一月二七日に、岡山市の歩行者専用道路を歩行中、歩行者専用道路を走行してきた単車にぶつけられる。同様に六月三〇日自転車にぶつけられ、腕にあざができる。

同じく、七月四日には、わずか三〇分歩く間に約一〇度狙われ、内三度ぶつけられる。

この件は、確か、東京法律事務所か神田弁護士宛文書にも記し、送付した覚えがある。こうして、再度、交通問題、特に歩行者専用道路問題に取り組み始めた。

ただ、もし九七年一月に謀略的事故に遭遇していなければ、前述の如く、自発的に交通問題特集をしていた。迷惑千万というよりも、私の取り組みを遅らせたため、本来助かる命がどのくらい奪われたであろうか。映画説ならば、関係者の責任であり、彼らに殺された命といってもよい。

元々取り組む予定であったが、余りに道路で危害を受けたため、「ふざけるな、警察や役場が自分でやれ」と怒り、取り組むのを一時休止した。首謀者が映画説で面白がってやっていると思い怒った。

今でも怒ることがある。「警察や都道府県が、歩行者専用道路問題や点字ブロックの安全問題に取り組まないならば、彼らの給料二割カット運動を全国で、本気で起こす」、と。

「私を使う前に、公務員全員真面目にやれ」、と。


要するに、逆だったのである。映画説ならば、暴力的関与をせずにいれば、私自身が私の能力を駆使し、様々なアイデアと交通問題関連作品をつくり、映画説の場合以上に、より交通問題に貢献していたであろう。因みに、私は〇八年に死者五千人未満を掲げていた。
この追記事項は、余りの挑発・トラブルで忘却していたことを、二〇〇八年か〇九年に思い出し、どこかにメモをしているか、第三者に文書で記し、郵送していると思う。


(2017年3月9日追記)
この文書は『閉じた窓にも日は昇る・付録編』に収録予定でいる。作成は上記の如(ごと)く、2007年に作成している。ただし、後に文書の流れから削除した。今度は、『同上・付録版』で本年末にはだせればと考えている。

次回は、本文にも記載している、1997年1月の交通事故に遭遇した問題を記す。1997年1月の事故遭遇問題で交通問題関連の情報公開は終了し、別の情報公開問題をそれ以降は掲載する。

最後に、1997年の事故でも、同年夏の単車による歩行者専用道路ジグザク走行でも、一部の人がゲラゲラ笑っていたことに陰謀の臭いを感じる。今回のケースでも、相手は11人から13人で、最初は私に威嚇をかけたにも拘(かか)わらず、最後の方は笑いを押し殺した顔をしていた。

「罠(わな)にかかった」という笑いなのか、映画説類で、「これで自分らの役割は果たしたし、催眠類で人はこんなに簡単に動かせるのか」という笑いかは不明である。

言えることは、いずれにせよ、私への人権侵害であり、一連の職業選択の自由・人身の自由剥奪被害と同様の被害である。

これが、今日まで、私が就職できなかったり、本来仕事から得られる収入を得られなかった理由である。私の能力や、未だに年齢問題などではない。



(2017年3月10日追記)
本日、不可思議な湯タンポ事件があった。上記は外的干渉による、私への催眠を含むリモートコントロールであったと言わんばかりに。もちろん、本日の湯タンポ事件を除いても、日々日程表(公式ブログの中のニュースブログ、公式ブログトップに目次掲載)を見れば分かるが如く、私への催眠を含むリモートコントロール危害は明白である。

更に、モントリオール空港での、私の大立ち回り事件を振り返れば、もはや、上記口頭注意の件は催眠類による、私へのリモートコントロールであると言ってよいと思う。
 もっとも、今回のケースの場合には欧米では、催眠やマインドコントロール抜きでも注意する人が多い。立派であるとも思う。
しかし、次回、紹介するケースは催眠類による、私の人格否定かつ社会生活を営む上で困難を強いた事件であった。


 尚、今回の件では、最終的に、「楽園」という小作品を作成し、警察・市議会・市長・マスコミ宛に送付し、社会啓発運動を余儀なくされた。

2017年3月10日 | カテゴリー : トラブル | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA