追悼―永六輔さん。

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追悼―永六輔さん。

 

諸事情より、参議院選挙の期間中はTVは一切見ない方針をたてていた。また、インタネット上でも選挙関連は見ない方針をたてていた。ただ、一回だけ、恰(あたか)も催眠型で、インターネット上ではあるが「NHK 日曜討論」とNEWS23の選挙特集の2本を7月4日に見た。T

なお、7月12日の夜に選挙結果も一度だけ見て、後は見ない予定でいた。念のために、東京都知事選が終了する7月31日まではみないという方針をたてていたからである。
だが、7月12日未明にふと、テレビではないがインタネットで新聞社HPを見ると、永六輔(えい ろくすけ、1933年4月10日~2016年7月7日)さんが7日に死亡していたのが、11日に分かったと報じてあった。
そこで、例外として、本日(2016年7月12日)TV「徹子の部屋―追悼永六輔」を録画したものを見た。

永六輔さんを追悼して以下のコンテンツを掲載する。


【構成】
(1)追悼文
(2)拙著『日本のフィクサーME・上巻』の該当箇所。
(3)YouTubeの以下四つのコンテンツ。
 ①永六輔さんが作詞した「上を向いて歩こう」
 ②永六輔さんが作詞した「遠くへ行きたい」
 ③永六輔さんの「遠くへ行きたい」
 ④⑤「徹子の部屋」に大橋巨泉氏と一緒に出演されたときのもの



(1)追悼文

永六輔さんのことは、大昔(私が小学校の頃)から知っていた。「上を向いて歩こう」(1961年)、「遠くへ行きたい」……などの作詞家として名を馳せていたからである。
また、『大往生』(岩波新書、 1994)を1995年頃に購入したこともある。

だが、永さんを身近に感じたのは、2011年、徹子の部屋を見たときである。そのときの模様を、拙著『日本のフィクサー・上巻』より(2)に抜粋掲載する。

なお、本日、『徹子の部屋』で永六輔さんの追悼番組を録画で夕方見る。大変、面白い話であった。この追悼番組を見ていると、どこで永さんが老いたかがすぐ分かった。

ウィキペディアには次の表記があった。
「2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けていた。2010年9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された。一時は引退も考えたと語る事もあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになっていた。2011年10月20日、永六輔に近いおすぎはパーキンソン病でなくバセドウ病だとラジオで語っている……」。

しかし、私は永六輔さんの老いの始まりは、上記の時期ではなく、紛(まぎ)れもなく2002年以降と思えた。つまり、永六輔さんの伴侶・昌子さんを2002年1月に亡くした時点である。

私は、昔、次のように言ったことがある。結婚は不幸である、と。
何故ならば、「もし結婚して、嫌(いや)な女性と分かれば、分かれるまで嫌な思いをし続ける。もし、本当に良い人と結婚すれば、My better half(伴侶)が先に死ぬと大ショックを受けるからである」、と。

永六輔さんを見ていると後者を感じた。
だが、それでも、私も死ぬまでに一度は結婚したいと思うときもある。それは、拙著『日本のフィクサーME』に登場する、オジョウという女性なのであろうか。

永六輔さんの御冥福をお祈りします。というよりも、私もあの世に行ったときには、永六輔さんの話術を楽しみにしています!



(2)永六輔さんとの対話(拙著『日本のフィクサーME・上巻』)より抜粋。
……
十一・『徹子の部屋』――ボンとトットちゃんの横綱争い

だんだん、関心を持ってきた布袋(ほてい)さんが、興味津々(しんしん)という顔で尋ねてきた。
「では、最近はどうなの」
「二〇〇四年頃からは、もう明白となったけど、何しろ、日本人ですら膨大なスポーツ選手の数(すう)、芸能人の数、学者の数、政治家の数、芸術家の数……との御対面だ。その上、外国人もそうなんだ。だから、一人一人や一つ一つに丁寧(ていねい)には不可能なんだ。第一TVをつけ転(うた)た寝をしていて、誰か偉い人が出た途端に正座はできないからね。またそんなことをしていたら、僕は何もできないよ。
TVはニュースと政経関連教養番組以外はBGM代わりにつけているだけだからね。それでも国家の要職に就(つ)いている人との御対面は気を遣(つか)うよ。尤(もっと)も、一定の時期から相手の方(外国の要人)がさりげなくとか、見ていない振りをしてくれるから助かるけどね。だから、その後は外国の要人がこちらを注視(ちゅうし)していても気づかないときもある。それと普段のままで対応せねば三百六十五日×十年以上だから身が持たないよ」

「じゃあ、夏はまたパンツ一枚で」
「原則はそう。徹子の部屋なんて酷(ひど)いもんだよ」
「どんな風に」
「スタニスラフ・ブーニンがゲストで登場したときの話をするよ。二〇一〇年九月十五日もいつものように『徹子の部屋』を見ていたんだ。今日は誰が出るのかと思っていたら、ブーニンが出てきたんだ。ブーニンを見ると見事な正装をしていた。それに併(あわ)せて黒柳徹子も華麗な服装をしていた。そのとき、僕は暑いのでパンツ一枚だったんだ」

当時の実況中継をしよう。
――☆☆☆(TVの中で)☆☆☆――
黒柳徹子が言う。
「今日の徹子の部屋のゲストはスタニスラフ・ブーニンさんです。
一九九五年、ショパン国際ピアノコンクールで優勝し、世界的ピアニストとして日本でも大フィーバーとなったスタニスラフ・ブーニンさんがゲスト! 奥様は日本人です。
『徹子の部屋』には二〇年ぶり二度目の出演。
好きな食べ物はたくあんと梅干。テレビで見るのは時代劇!とにかく日本が大好きなブーニンさん。
日本人の女性と結婚し、現在は日本で生活してい……」
と、言いながら、黒柳徹子がTVから私をふと見た。そのとき、私は上半身は裸で下はパンツ一枚で、柱に片足をあげ、テレビを見ていた。すると正装の二人が出てきた。プーニンは驚き、黒柳徹子は笑いを必死で抑えていた。黒柳徹子はTVのため笑ってはいけないと我慢(がまん)するが、私の方を見る度(たび)に可笑(おか)しくてかなわないし、笑うと他の視聴者に何のことか分からないし、で必死で我慢していた。私の方は暑いから服を着たくないし、それにここで服を着ると過去に裸で見た人に失礼になるので筋(すじ)からも着られない。
――☆☆☆(TVの中の場面終了)☆☆☆――

「しかし、プーニンの演奏は見事だったね。徹子の部屋で〝てっつぁん〟(黒柳徹子)は独り占めなんだから、あれでは徹子の部屋を止(や)めたくないだろうね」

「でも、ブーニンはびっくりしただろうね」
「呆気(あっけ)にとられたような顔をしていたよ。黒柳徹子は笑いを抑えていたけどケロッとしていた。ブーニンの方は恥ずかしくて僕の方を見られないようだった。それで、僕も部屋の中でも服装を整(ととの)えようか、それをすると過去の人への失礼に当たることや、僕はTVから見られることに合意していない意思表示のため、このままで行くか迷い出したよ」

「で、結局その後どういう方針をたてたの」
「迷いながら、例によって、別の日にチラッと『徹子の部屋』を見ると、何とも言えない風貌(ふうぼう)のおっさん三人がヨレヨレのジャンパーを着て出ていたんだ。裸ではないけど、これは僕よりも酷(ひど)いとびっくりし、TVを切り替えたよ。誰なんだろう、と気にはなったけどね。確か二〇一一年一月三十一日の番組だった」

「で、その三人組って誰だったの」
「翌日も、徹子の部屋を見ると例の三人組が出ていた。見ると加藤武氏、小沢昭一氏、永六輔氏だったよ。だけど三人とも服装だけではなく、風貌や雰囲気も凄(すご)かった。簡単に言えば、まるで布袋さんと明神君とハカセの三人がいるようなそんな雰囲気だった」
「その三人は全員早稲田大学に関係しているから、ボンの先輩だよ。ところで、服装が酷(ひど)かったというけど、どの程度なの。ボンと比べてどうだったの」
「僕の服装と同等か、僕より少しマシかという所かな」
「それでは、相当ババッチイネ。徹子の部屋は良く見るの」

「彼女の番組を良くみるのは、彼女がユニークなことと、時々徹子の部屋に面白(おもしろ)い人物が登場するからね。それと土台には、多分、彼女のユニセフでの活動もあると思うよ」
「黒柳徹子は、相当、変わっているけど、そんなにユニークなの」
「では、数例を紹介しておくよ」
そこで二〇一〇年徹子の部屋であった話をした。……



(3)永六輔さん、追悼コンテンツ。
①Sukiyaki (Ue o Muite Arukou) – Kyu Sakamoto (English Translation and Lyrics)


②ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」


③遠くへ行きたい第7巻(アンダーラインをクリック)
https://www.youtube.com/watch?v=aub1o019ddM&list=PLoLl8Oi41KuKsya73nEQsdbiDLnX2nCoP&index=10

④徹子の部屋 2月4日 ! 徹子の部屋 祝40周年!永六輔&大橋巨泉 160204(⑤画像がでない場合は下記④アンダーラインをクリック)
https://www.youtube.com/watch?v=55liRJckxBg&list=PLVa80LGIjb60ZR6R2_3ckkbmy6RRRRXMS